一徳さんの「文武は一徳!」

このブログは、酒・野球・女・本 この4つをこよなく愛する筆者が、ご縁あって伝統ある大阪八尾ボーイズの指導者を拝し、野球を愛する青少年及び保護者達の活力の一助になるべく、無責任極まりない内容でお届けするものである。コメントはご自由にどうぞ。

2022年03月

塾をやる前、私は商社に勤めていて、営業から法務審査からカネの回収から労務から採用から、資金繰り以外のほぼビジネスの一通りを経験させて頂いた。それは今、独立して事業をやる際に大変に役立っている。

なにより、ビジネスに契約書は付き物で、様々な契約文書を読んでは判断し、稟議を書いた。

この契約書、本当にその会社の考え方や体質がとてもよく出る。ゆえに採用のチョイスの段階で必ず契約書は読むようにしている。ウィンウィンの関係を望んでいるのかワガママなのか、怪しいブラック企業かどうか等々、結構読めたりするのである。

一休さん
しかしなにも契約書は会社対会社だけではない。個人でも取引にまつわる事は全て契約書がついて回る。
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取引のルール決めであるから、野球で言えば「野球規則」の如くで、契約書があって当然なのである。

さて本題。世の中、この4月から成人の年齢を18歳に引き下げる事になり18歳になって契約書にハンコを押したりサインしたりすると、今まで保護者不同意では契約成立しなかったものが、成立する事になる。責任がドバっとかかってくるのである。

お子さんが今14歳だとすると、あと4年でそうなる。

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 契約書が面倒くさいから読まない。いちいち細かい所まで読まない。それなのにサインしてしまう。

内容がトンでもなくても契約は成立する。仮に公序良俗に反している契約だとしたらもちろん裁判では無効となる可能性は高いが、それでも鬱陶しい裁判を、かなりの時間とカネと労力をかけてやらねばならなくなる。

実際に塾の規約という簡単なものでも、「そんなもの読まない」と平気で言った父親がいた大の大人がである。呆れてモノが言えない。相手が真摯に契約する人の事を考えて作成した文書を読まないなぞ、ワガママで人を蹂躙している以外の何物でもない。自分の妻と交わしている契約書でも同じことが言えるのだろうか?

(え?妻と契約書なんてしない?ホント?)()

 

いまの若者、いや若者でなくても、文章を読めない、読まないという人は結構いる。いっとき「教科書を読めない子供たち」という本が流行ったが、いまや「マンガさえ読めない子供たち」がいるのである。

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そりゃそうだ。画面の動画ばかり見て文章を読まないのだから、いざ文章が目の前に来ると脳みそがそれを拒絶してしまうのは当たり前である。

おそろしいことだ。

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これからの世の中、契約不履行とかいう裁判が増加して、泣く羽目になる若者がドンドン増えるんじゃなかろうか、と懸念する。

だって、何も知らないし文章も読めぬのが相手なのだから、ダマそうとしたら簡単にダマせるもんね。

 

それが嫌なら、今のうちに徹底的に文章を読み込むこと、ですな。

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みなさんは、ご自身のお子たちにどんな大人に育ってほしいと願っているだろうか?

子育て、という限りは、ゴールは大人になった時であろう。

だが見ていると、どんな大人に育てたいかというよりむしろ、自分のオモチャにしたいとか、してしまっているとかいうのが結構多そうな気がしている。無論そんな気で育ててるのではないのであろう、と信じたいが。 

かあちゃん

親子の会話が、実は子育てにとても重要なのである、というのは皆さん肌身で感じておられると思うが、親がゲームやスマホやLINEなどに夢中で子を放ったらかしにしているとか、子が喋って来ていても「うるさい!」とか「お母さん、今忙しいでしょ!」なんて言って我が子を追いやってしまう、というシチュエーションに心当たりはないだろうか?

他人がやってるとよく気が付くのだが…。しかしこれ、本当にとても危険な兆候なのである。

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子育てでいちばん大事なことは、「どれだけしゃべらせるか」であると言っても決して過言ではない。

長年子供たちを見ていると、優秀な子ほど親に話を聞いてもらっている。しゃべることほど頭の鍛錬になることはない、といってもいい。

いつ、どこで、誰が、何を、なぜ、どのようにしたのか。いわゆる5W1Hがなければ、自分が話したいことは相手にうまく伝わらない。話すうちにそれが感覚としてわかってくるので、自然と身についてしまうのである。

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だから、親は子どもに「勉強」など教える必要は全くない。

むしろ、子どもに教えてもらってほしい。子どもは新しいことを知ったり楽しかったりした事は、うれしくなって話すもの。そうやってしゃべることが子どもにとって最大の脳みその運動、勉学の大きな基礎経験となる。

 

無論どんな話でも構わない。親は、子どもが話を始めたら、5W1Hを使って適度に合いの手を入れることで、話を広げる手助けをしながら、じっくり話を聞いてあげてください。

読み聞かせと共に、もう、絶対におススメです。

 
ちなみに私の、指導者としての試合終了後のミーティングの第一声は、
「感想をどうぞ」である。
選手にしゃべらせて、それに対してコメントする。中学生など案外よく分かってるなあと、というかこいつがこんな事思ってるんや、などという新たな発見があるのがまた楽しい。

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 よく、子供に早く自立させるために、行動を自分で決めさせる、という話を聞く。

 大人が決めてそれを「やらせてしまう」と、それは押し付けであって、子供を自立させられない。

だから例えば、どの塾、どのチームに入るかとか、どの習い事をやるかとか、塾の科目やコース決めなども子供に決めさせる。

 そういうのでなくても、これも例えばだが、靴を買わねばならなくなってどの靴にするか、という選択ではなく、何かを買ってあげるのに何にするか、を選択させる、というような事である。

 

確かに自立は大事で、私はこのブログでも再三それを強調してきた。

自主性や主体性には、当然ながら、自身の行動の選択や決断が漏れなくついてくる自分自身で決めさせると決めた責任も感じてくれるだろうし。

 

だがちょっと待て。

本当にそうなのだろうか…?

それとこれは一緒くたにしていいものなのか?

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 我々は自身の経験や知識の範囲からは、なかなか出られない生き物なのである。

 経験や知識外の所に思いを馳せ、想像し、行動に移す、なんて事はご承知のとおり至難の業である。

だからどうしてもやりたい事など自分自身の想像の範囲の中、経験や知識の中から選択せざるを得ないのである。子供に背景や経験などあるはずがない。

 しかも子供だ。向上するためにやるべきことではなく、面白い方、楽な方に行こうとするのに無理は全くない。必然的にその子の小さな想像の範囲の中で、自分の心地よい範囲からの選択にならざるを得ない。

 子供に無限の可能性があるのは論を待たぬが、同時に自分が停滞していると察知する成熟した客観性や、限られた選択肢の中で選択をしてるんちゃうか?という疑いの心など、ほぼ全くと言っていいほど、ない。大人でも、見えているものの中から、経験したものの中から選択をするのである。

水原さん

 そもそも、私たちは自分の自由意志で生まれた訳ではない。「生まれる」という受動態である。人生が受け身で始まり、受け身で初期の環境に影響を受け、そうして作られた自分に好き嫌いが備わり、その基準に従って選択をしている。言い換えると与えられたDNAと授けられた経験や知識に基づいて選択をしているだけである。

 自分がやりたいようにやるということは確かに素晴らしい。しかしその弊害もあると思う。

自立して自分で決められる大人になってほしいと、子供に自由に選択させていたら子供が自分の心地よい範囲から出なくなった、つまりものすごいワガママに育った、という例はビックリするほどある。

 

 ではその「決めさせる境界」はいったいどこ?

大人がプロデュースしてあげ、選択肢を示し、そしてその後の選択は自分でする、という境界。

 例えば(例えばが好きやなぁ…)靴を買うと決め、店を決めて連れていく。ここまでは大人のプロデュース。そしてその店の中でどの靴にするかは、子供のチョイス。こんな感じであろうか。

この子供のチョイスにまで大人が踏み込むと、依存心から抜け出せぬ子にさせてしまう大きな要因となるのである。

で、次の段階で店を決めさせてなどと、範囲を広げていくのである。

 

忙しいし余裕のない大人も多いけれど…。

まさか、とは思うが、大人が責任逃れのために子供に選択させているのでは、なかろうな?

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実はこの話は、かれこれ20年ほど前にもあったものである。当時私の居たチームに。

にも、と言ったのは、現在はもっとポピュラーなものになってないか、
という懸念があるから。

 

中学2年というのは、おそらく人生で初めて「先輩」と呼ばれる学年・年齢であるのであろう。

今はあまりそうではないのだろうが、おおよそは今まで一番下っ端で、雑用からなにから先輩の言う事は何でも聞かねばならない。ゆえにチーム内では敬語は使うが使われた事などない。

 

それが下が入ってきて、いきなり「先輩」と呼ばれて後輩を指導する立場になる。

中学に入ったばかりだと敬語を知らぬ奴もいる(そりゃ仕方ない。だって小学校で敬語なんて教えないもん)。
そういうヤツに敬語も教えないといけない。

指導者に「おっちゃん、次、どうしたらええの?」なんて言われたた日にゃ、聞いた先輩たちは背中にゾッとしたものが走る…。

 

しかし、である。その20年前、その先輩自らが後輩に対して、「オレらには敬語使わんでええぞ」なんていう、とんでもない事を言ってるのを聞いた。

これには正直、天地がひっくり返るほどビックリしたのである。しばらく何が起こったのかわからぬほど頭がクラクラした。

 

彼らは何もわかっちゃいない。言葉の表面上のことだけしか見ていない。

そこに現れる文化や人の歴史、そんなものがすべて合わさって言葉という存在がある、という事、そして敬語の何たるか、という事も。

 

敬語は決して日本国だけの専売特許ではない。英語でも他の言語でも敬語は存在する。
むしろ欧米の方が立場の上下には大変敏感なような気がする。
いや、日本国は曖昧文化だけにその辺りも曖昧で、欧米に比べると圧倒的に立場にユルいのである。これは商社マン時代に、欧米人と交流していてイヤというほど味わった。

 

我がチームにおいては、そういうのがどうなってるかは残念ながら私はよくは知らない。

ただ、もしそういうのが存在したとしたらであるが、そういう、人間の世界の歴史的慣習をそのアホな先輩が打破しようとしている、という事だ。

許していいものかどうか、シッカリ対話してよく考えるべきマターではないだろうか。

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 20年前に私が監督してたチームでは、滔滔とその根拠を話して即刻、敬語をシッカリ使わせた。

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