よく、子供に早く自立させるために、行動を自分で決めさせる、という話を聞く。

 大人が決めてそれを「やらせてしまう」と、それは押し付けであって、子供を自立させられない。

だから例えば、どの塾、どのチームに入るかとか、どの習い事をやるかとか、塾の科目やコース決めなども子供に決めさせる。

 そういうのでなくても、これも例えばだが、靴を買わねばならなくなってどの靴にするか、という選択ではなく、何かを買ってあげるのに何にするか、を選択させる、というような事である。

 

確かに自立は大事で、私はこのブログでも再三それを強調してきた。

自主性や主体性には、当然ながら、自身の行動の選択や決断が漏れなくついてくる自分自身で決めさせると決めた責任も感じてくれるだろうし。

 

だがちょっと待て。

本当にそうなのだろうか…?

それとこれは一緒くたにしていいものなのか?

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 我々は自身の経験や知識の範囲からは、なかなか出られない生き物なのである。

 経験や知識外の所に思いを馳せ、想像し、行動に移す、なんて事はご承知のとおり至難の業である。

だからどうしてもやりたい事など自分自身の想像の範囲の中、経験や知識の中から選択せざるを得ないのである。子供に背景や経験などあるはずがない。

 しかも子供だ。向上するためにやるべきことではなく、面白い方、楽な方に行こうとするのに無理は全くない。必然的にその子の小さな想像の範囲の中で、自分の心地よい範囲からの選択にならざるを得ない。

 子供に無限の可能性があるのは論を待たぬが、同時に自分が停滞していると察知する成熟した客観性や、限られた選択肢の中で選択をしてるんちゃうか?という疑いの心など、ほぼ全くと言っていいほど、ない。大人でも、見えているものの中から、経験したものの中から選択をするのである。

水原さん

 そもそも、私たちは自分の自由意志で生まれた訳ではない。「生まれる」という受動態である。人生が受け身で始まり、受け身で初期の環境に影響を受け、そうして作られた自分に好き嫌いが備わり、その基準に従って選択をしている。言い換えると与えられたDNAと授けられた経験や知識に基づいて選択をしているだけである。

 自分がやりたいようにやるということは確かに素晴らしい。しかしその弊害もあると思う。

自立して自分で決められる大人になってほしいと、子供に自由に選択させていたら子供が自分の心地よい範囲から出なくなった、つまりものすごいワガママに育った、という例はビックリするほどある。

 

 ではその「決めさせる境界」はいったいどこ?

大人がプロデュースしてあげ、選択肢を示し、そしてその後の選択は自分でする、という境界。

 例えば(例えばが好きやなぁ…)靴を買うと決め、店を決めて連れていく。ここまでは大人のプロデュース。そしてその店の中でどの靴にするかは、子供のチョイス。こんな感じであろうか。

この子供のチョイスにまで大人が踏み込むと、依存心から抜け出せぬ子にさせてしまう大きな要因となるのである。

で、次の段階で店を決めさせてなどと、範囲を広げていくのである。

 

忙しいし余裕のない大人も多いけれど…。

まさか、とは思うが、大人が責任逃れのために子供に選択させているのでは、なかろうな?

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